毒親とは何か

 

このページは、PaToCaを通して「毒親から変わりたい」と願う人が、そもそも毒親とはどのような存在なのか、どんなことをすると毒親と呼ばれるのか、逆に何をすれば毒親ではなくなるのかといった基本事項をまとめています。

関連情報

PaToCaは、モラハラ・DV加害者のためのコミュニティGADHAから派生しています。加害とは何か、ケアとは何かといった理論の中心的な概念はGADHAのサイトでも詳細が記述されています。ぜひGADHAの理論ページもご覧ください。また、「よくある質問」や関連する書籍などはPaToCaの理論ページから見られますのでぜひそちらもご覧ください。

毒親とは何か

毒親(toxic parent)という言葉は、スーザン・フォワードの「毒になる親」という本によって広く知られるようになった言葉です。日本では1999年に翻訳・出版されました。このページでは歴史的な経緯についてはごく簡単にしか触れませんが、そこから特に母娘間における支配にフォーカスが当たる形で「親子関係における問題」を説明する言葉として広まりました。

現在においては、広く「子どもを生きづらくさせる親」を毒親と指す、と言ってもいいほどにゆるやかな定義と共に用いられています。実際、毒親という言葉で表現される時の具体的なイメージとしては「物理的・身体的な暴力を含む虐待をする親」から「習い事を無理やりさせる親」「ネグレクトをする親」など、多様なイメージを内包しています。

あなたは毒親なのか

そのため「毒親だと言われて調べてみたけど、自分が当てはまるとは思わない」という人もいると思います。逆に「このくらいで毒親というなら、誰だって毒親だ」と思った方もいるかもしれません。

しかし、もしもあなたが「自分が毒親なのかどうか」を知りたいと思っているのだとすると、実はそれはあまり重要ではないかもしれません。

毒親かどうかを知る目的はなんでしょうか。毒親だと認定されればxの行動を取り、そう認定されなければyの行動を取る、といったふうに、自分の出方を考えているのだとしたら、その対応がまさに(PaToCaで言う)毒親的な振る舞いと言えます。

PaToCaにおける定義

PaToCaでは、毒親を「加害する(ケアの欠如した)親」と考えたいと思います。多様な定義があり、どれにも歴史があり、一理ある中で、なぜそのような定義を置くのかを述べます。

僕はモラハラ・DV加害者の学びの場であるGADHAを運営する中で「加害とケア」について考えを深めてきました。そして、加害とは「ケアの欠如」であると考えることで、「ケアをしないこと」が加害であり、関わりには「ケアするか、加害するか」しかないという考え方をするようになりました。

そして、その考え方の背景には「性格ではなく言動」「言動は選べる、学べる」といった前提を含んでいます。毒親とは生まれついたモンスターではない、と考えます。

毒親とは、加害する親です。しかし、加害者はケアを始めていくことができます。人は学び変わることが可能です。このページでは、加害とは何かというその詳細を、具体的なエピソードとともに考えていきたいと思います。

ケアとは、加害とは何か

PaToCaでは、加害をケアが欠如した関わりだと考えます。ではケアとは何か。それはニーズを知ろうとし、それに応じることです。ではニーズとは何か。それは、その人が必要だと思っていたり大切だと思っているのに、それが満たされていない状態です。

ひっくり返すと、加害とは「相手にとって必要だったり大切だったりすることを知ろうとせず、それが満たされているかどうかも知ろうとせず、それに応じようともしないこと」だと言えるでしょう。

先ほど、「毒親だと認定されればxの行動を取り、そう認定されなければyの行動を取る、といったふうに、自分の出方を考えているのだとしたら、その対応がまさに(PaToCaで言う)毒親的な振る舞いと言えます。」と書きました。

それはまさに上記の定義から見えてきます。つまり、子どもに毒親だと言われた時に大切なことは、そこで「この子は、どんなことを必要だったり大切だと思っているんだろう。それは満たされているんだろうか、自分はそれに何かできるだろうか」と考えられるかどうかです。

毒親という強い言葉を使って何かを訴えてくる子どもを前にした時、自分が責められている、怖い、許さない、生意気だという感情や思考によって言動を選ぶのではなく、その言葉の背景にある相手の痛みや傷つきに目を向けることが、ケアをすることの始まりだということです。

子育て期におけるケアの難しさ

「何を求めているのか、何に困っているのかを知ろうとし、それを満たそうとする行為」と聞いて、特に言葉も話せない頃の子育てはその典型だと思った方もいるかもしれません。言葉で説明できないけれども、泣いたり、辛そうにしたり、肌が荒れたり、吐いたりする赤ん坊とは、そのような意味で最もケアを必要とする存在です。

お腹が空いているのかなと考えてみたり、トイレしたのかなと確かめたり、もはや本人も自覚していない、わからないニーズをケアしようとする営みです。うまくいくことばかりではなく、どうして泣いているのか、どうして怒っているのか、わからなくて苦しい…ということもよくあるはずです。

そしてだんだん大きくなってくると、イヤイヤ期などもやってきます。衛生的・健康的なレベルで、歯磨きやご飯など必要なものを嫌がったり、むずがったりしていると、それを無理やりさせることが「加害ではないか」と思ってしまうことも少なくありません。

「ニーズを尊重するってなんだろう」「嫌だと言ってるならやるべきではないのか」と、ケアをしたいからこそ、それが大切だと思っているからこそ苦しみます。

そこで「歯磨きしたくないならいいや、あなたが選んだんだからね」「風邪ひくって言ったけどそれでいいんだったら好きにしな」と言って体調を崩したり、将来的に口腔の健康状態が悪くなることを子どもの責任と考える人もいるかもしれません。

この線引きは、時代によっても、地域によっても、社会的・経済的状況によっても、変わってくるため、簡単に判断することはできません。ここではそのジャッジ(ある行為は加害だ、あるいはケアだ)を一旦置きます。

しかし、ひとつわかることがあります。それは、親にとってそれがその人なりに悩み、葛藤した先の判断かどうかということです。ただ安易に「面倒だからそれでいいや」と考えるのではなく、あれこれ試してみたり、悩んだり、人に相談したり、どれがいいんだろうと考えながら、自分自身の状態や余裕も踏まえて、判断することになります。

しかしその葛藤などは外から見えません。だからこそ、安易に誰かを毒親であるとか、それは加害であると断ずることは、危険なことだと思います。少なくともそのような関わりは、加害かケアかと言われれば、加害であると言えるでしょう。

さらに難しいのは、10歳などを超えてきて自分自身の考えを持ち始めたり、外部からの学びもどんどん増えて、親の常識や考えとは異なるものをたくさん身につけ始めて以降です。

衛生や健康に関してはある程度自信を持って納得感を持って関われていた方でも、この辺りからは例えば「宿題や勉強にどのくらい関与するか」「部活や習い事を本人の希望と自分の余裕などから何をさせたりさせなかったりするか」「家事にどのくらい協力してもらうか」など、ますます正誤の見えない、しかも時代によって常識も全く異なる事柄について考えなくてはなりません。

「勉強したくないんだ、じゃあ好きにしたら」というのも「勉強は大事だ、中学受験だ」と追い込むことも、簡単に決められることではありません。今この瞬間の判断がどうであれ、後からそれがどう結果として出てくるのかは見えません。

実際、GADHAなどでモラハラ・DV加害者から話を聞くと、どちらの側の意見も聞くのです。「もう少し応援して欲しかった、認めて欲しかった」という気持ちも、逆に「あんなふうに追い詰めないで欲しかった、自分は受験や習い事はしたくなかった」という気持ちも。

何が正解かはわからない。しかも、子育ては、その結果(と呼ばれるような何か)が、後からついてきます。全く加害せずに子育てするのは、このように考えてみると、不可能でさえあるように思います。

そうだからこそ、「毒親」と呼ばれる人にとって、その言葉はすごく受け止めるのが難しい言葉だと思います。何が正しいのか、何が良いとされるのか、今と昔では異なるし、常識も違うし、理想はあっても現実はそれができるとは限らない。

ただ、ここであらためて述べると、やはり「ためらわないこと」「自分の正しさを疑わないこと」が加害であるとは言えると思います。何がケアとされるのか、その具体的な内容は、子どものニーズによっても異なるし、その後の結果によっても変わってしまい、安易に述べることはできません。

しかし、この安易に述べることはできないと言うことを認め、だからこそ「本当にこれでいいのだろうか」「他のやり方もあるのかもしれない」といった躊躇い、葛藤を抱えないことは、加害的だと考えられると思います。

ケアを始めるために:情動調律

これから述べることは、特に小さい子どものうちの子育てにおいては難しく感じられるかもしれません。言語的な部分に寄ってしまっていますが、実際には身体的な関わりも重要になります。しかし、GADHAなどを通して加害とは何か、ケアとは何かを考えた時に見えてきた、基本的な他者との関わりについてここでは簡潔に述べます。

まず、一番初めに重要なことは「子どもは、自分とは異なる感覚を持った、他者である」という紛れも無い現実から始めることです。自分と同じことで喜び、悲しみ、泣き、笑い、怒り、痛むとは限らない。そこから始める必要があります。

ただし、特に乳児期においては分離して考えることもできないほど近い存在(特に母親にとって、その子は自分の体から現れた命)であったわけで、この切り分けは言葉でいうほど決して簡単ではないと思います。

子育てのすべてに共通しますが、しかもそれが「ここからはもう大人」といった切り分けではなく、子どもの成長とは行ったり来たりする部分もあれば、偏った部分もあり、成熟したかと思えば子供っぽいところも見え、親も「大人として扱って良いのか、子どもとして扱って良いのか」と悩み、葛藤することが多いはずです(ただし、大人であれ、子供であれ、自分と違う一個の独立した人格であると考え、今から述べるような尊重の仕方は常にできると思います)。

情動調律とは、ここでは以下のようなことを指します。それは「あなたには、XXのようなニーズがあり、それが満たされていないから/満たされているから、YYのような感情になっているのかな」と相手の感じ考えていることを想像し、理解しようとする試みです。

例えばスポーツの試合で負けて、帰り道に無言で座って下を向いている子どもにどんな声かけができるでしょうか。「たくさん練習したのに、試合に負けてしまって悔しかった?」と尋ねることもできるかもしれません。

これも言い方によっては嫌な言い方になるかもしれませんし、子どもの性格によっては「そう言う言い方をしないで」と言われるかもしれませんが、情動調律を試みる関わりだと言えると思います。そこで「いや、悔しいのは当然だ、悔しかったに違いないだろ」と解釈を強要しなければ。

あるいは「あんなに応援したのに下手くそが、これなら家で寝てる方がマシだった」と言うこともできるかもしれません。これは加害的だと言えるでしょう。端的には、この言動が「ケア」を試みようとしていないからです。ケアか加害かしかないなら、この言葉は加害です。

相手が感じ考えていることはどんなことだろうか、たとえ自分とは違った価値観や考え方に基づいているものであったとしても、相手が感じること自体は否定できない。そんな姿勢で、相手が見ている世界、感じている世界について知ろうとすることが情動調律です。それは必ずしも言葉によるものだけではないと思います。

ケアの始まりの1つは、この「他者としての相手を知ろうとすること」にあると言えそうです。

子育てで加害を0にするのが不可能な理由

このように考えてみると、子育てにおいて「加害をしないこと」はとても難しいのではないかという結論に至ります。子どもが自分のニーズを必ずしも自覚していなかったり、あるいは子どもゆえに見えていない視点もある中で「歯磨きしたくないならしなくていいよ、勉強したくないならしなくていいよ」と関わることがケアなのかは難しいところです。

必ずしも子ども自身がそのニーズを認めていなかったり、持っていなかったとしても、親のニーズに基づいて子どもの言動をコントロールしようとする場面はあるはずです。それは必ずしも支配してやろう、攻撃してやろうという意思に基づくとは限りません。

なぜなら、子育てには「その子が、社会で他の人と生きていけるようにすること」を含むことが多いからです。そのためには、何らかの「社会」を想像して、「生きていく」とはどういうことかを決定する必要があります。

でも「社会」って一言で言っても、生まれ育った環境や、時代の変化によって変わり続けていきます。「生きていく」といっても職業はたくさんあり、福祉制度も変わっていき、たくさんの人と仲良くしたい人もいれば、一人で静かに暮らしたい人もいるでしょうし、その内実は多様です。

子育てとは「その子が他者であり、究極的にはわからない存在」でありながら「今後どうなっていくのかも、人によっても見える世界が異なる社会において」「その内実が実に多様で想像ができない生き方を想定して」行うにも関わらず、「その子が、社会で他の人と生きていけるようにすること」を含んでいるという、とんでもなく困難なプロジェクトなのです。

これは、無茶です。仮にAという子どもを育てることがうまくいったとしても(このうまくいく、と言うことの定義も、測定尺度が何なのかも怪しいですが。例えば学歴なのか、収入なのか、それは本当にうまくいったというために大事な指標なのかから論点ですよね)、

・それがBという他の子どもにも役に立つのかどうかはわからないし

・時代や社会制度が違えばまた異なるのかもしれないし

・実施者側の性格や特性、得意不得意などがあるなら、その方法ができるとも限らないし、

わからない。実際は、このわからなさは、子育てだけではなく、そもそも生きることそれ自体のわからなさでもあるのですが、とにかくわからない。

だから、加害を0にすることは、相手のニーズを完全に尊重することは、不可能です。私たちは神ではなく、失敗もするし、うまくいかないこともある、人間だからです。

では、真に毒親となるときとは

では、誰もが毒親なのでしょうか。「加害する親」が毒親なら、このまま行くとみんな毒親になってしまいそうです。それはそれでひとつの考え方です。しかし、PaToCaではここからもう一つ踏み込みたいと思います。

本当の意味で毒親となるのは、子供から「毒親だ」と言われた時に、それを「否認する」ときだと、PaToCaでは考えたいと思います。

いずれ適切なワードを考えたいと思いますが「毒親になるのが怖いと思いながら子育てに関わる人」と「毒親だと言われて学び変わりたいと考える人」と「毒親だと言われてそれを認めない人」はそれぞれ別の段階にあると言えると思います。

踏み込んで言うなら「毒親になるのが怖いと思いながら子育てに関わる人」にとってまず必要なのは、子育てに関する知識を身につけることや、そのための余裕を作るための環境整備、そのための福祉や子育て支援などだと言えると思います(その上で、毒親にならないようにとPaToCaで学ぶことは意味があると思いますが、最優先ではないと思います)。

そして「毒親だと言われて学び変わりたいと考える人」にこそ、PaToCaは意義を持ちます。毒親だと言われてしまうことは、避けられないのです。でも、毒親といわれてから、学び変わろうとするかどうかは、自ら選べることです。

どうして子どもが毒親と言っているのか、どんな傷つきや悲しみがそこにあるのか、ではどうしたらよかったのか、そしてなによりも、これからどのように関わっていけば良いのか、ケアを始めていけるんだろうか、と問い直すことは、いつからでもできるからです。

中には、自らの毒親性を認め、学び変わることを通して、お子さんとの関係が良くなる人もいます。それは大変な痛みを伴うプロセスですが、自分の加害を認めて謝り、これまでとは違った関わりをすることを通して、子どもとの間に信頼関係が回復することはあります。

よく、「人は変わらない」と言いますが、それは嘘です。僕は、それが嘘だとはっきりとわかります。それはモラハラ・DV加害者とされる人であっても変わることができるからです。DVチェックシートの全てに当てはまっていたのに、全てのチェックが外れるほどに変容する人もいます。だから、毒親とされる人も学び変わることはできます。そして幸せに生きることもできると僕は考えています。

そして「毒親だと言われてそれを認めない人」については、そこにある恐怖や怒り、悲しみに心を向けたいと思います。自分なりに良かれと思って、普通だと思って、当たり前だと思って、他に仕様がないと思って子どもと関わってきた人にとって、毒親だと呼ばれることは苦しいことです。

それを素直に認められない気持ちや、じゃあどうしたらいいんだという気持ち、今更仕方ないと言う気持ち、親不孝だと思う気持ち、そう言った気持ちは自然なものです。

誰も、それを否定することはできません。ただし、それで子どもとの関係が終了することは、仕方ないことだと受け入れるしかありません。子どもの傷や痛みに関する必死の訴えに対してそれを否認するということは、強烈な加害そのものです。加害者と一緒に生きていきたい人はおらず、関係は終了するでしょう。

毒親とは認めたくないけど、関係は終了したくないという方もいると思います。しかし、それは無理です。子どもが別れを選んだら、もうそれを止めることはできません。その上、自分の加害を認めず、子どもの被害を認めず、謝ることも、学び変わることもしないで、関係が継続することは難しいでしょう。

学び変わることで、関係が回復することもあるかもしれません。そんなロールモデルが少しずつ増えてくることで、その毒親という言葉を認める勇気が湧いてくることを願って、PaToCaは活動を続けていきます。

まとめ

長くなりましたのでここで簡単にまとめます。まず毒親とは「加害する(=ケアが欠如した関わりをする)親」のことです。

ケアとは、相手の大切にしていること(ニーズ)を知ろうとし、それが満たされているかどうかを知ろうとし、満たされていなければそれを満たそうとする関わりです。

子育てにおいては、乳児期から大人になっていくプロセスの中で、本人もわかっていない部分がある中でのケアをする必要があり、極めて大変です。

輪をかけて、社会が、未来が変わっていく限り、本当にニーズを満たすことは、原理的に難しいといわざるを得ません。

結果として、子育てにおいてケアに失敗することはある意味で必然です。だからこそ、失敗から始めて、また学び直すことこそが重要です。

自分が正しいと考え失敗や子どもの傷つきを認めなかったり、他に仕方がなかったんだと学び直そうともしない時、本当の意味で人は毒親になってしまうと思います。

続いて

このように毒親という概念をPaToCaなりに整理した上で、次は「毒親から変わる」ということに特に焦点を当てたコンテンツに進んでいきます。

終わりに

PaToCaは「変わりたい」と願う毒親のための学びのコミュニティです。毒親であることを認め、学び変わることは大変なことです。知識だけではなく、愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたりする仲間が必要です。

ぜひ、PaToCaの理論ページを参考に学びを深めながら、PaToCaの活動ページにあるコミュニティやイベントに参加することで、変容を共に進めていきましょう。