• Introduction

    はじめに

    このページの目的

    はじめまして、PaToCa代表の中川瑛と申します。

     

    このページは「毒親」や「虐待(の連鎖)」「マルトリートメント」「愛着障害」「アダルトチャイルド・アダルトチルドレン」といったキーワードと共に、お子さんとの関係の危機を迎えている方のために書いています。

     

    このページは「悪意のない毒親」が、自分の加害性に気付いて検索した時に出てきて読むこと。あるいは、誰かに「あなたは毒親だ」と伝えられ「読んでみて欲しい」と言われて読むことを想定しています。

     

    「毒親だ」と言われたり、自覚した時には、大変なショックを伴うと思います。そんな方にとって、何度も読み返して、自分を振り返ったり、ではこれからどうしたらいいんだろうと思い悩む時の、ヒントになるようなページにします。

     

    僕は、「毒親は学び変わることができる」「学び変わることを通じて幸せになって良い」と考えています。その理由や考え方についても、このページを読んでいただけたらご理解いただけると思います。

     

    その目的のため、長文になります。一度に読み切る必要はありませんので、何度も読み返していただければ幸いです。

    このページの構成

    まずはじめに、立ち上げの背景や、モラハラ・DVと虐待・毒親・マルトリートメントなどの関係性、その連鎖などについて述べます。

     

    続いて、「変わりたいと願う毒親」のための学びのコミュニティであるPaToCaについて、その方針や活動内容をお伝えさせていただきます。

     

    今後、「具体的にどんなことが毒親とされるのか」や「どう変わっていけば良いのか」などについてもどんどんコンテンツを拡充していく予定です。

  • 立ち上げの背景

    Context

    背景1. 毒親は加害者であり、加害者は学び変わることができる

    PaToCaの代表は、「変わりたい」と願うモラハラ・DV加害者の自助団体であるGADHAの代表でもあります。モラハラ・DVと聞くと「ヤバい人」「変われないモンスター」「死んだ方がいい」「一緒にされたくない」と思うかもしれません。

     

    2つほどお伝えしたいことがあります。

     

    1つ目は、GADHAの参加者の多くが「みんなもっと怖い、おかしい人だと思っていたら、どこにでもいる普通の人だった」と驚くことです。誰よりも本人も「自分は普通だと思っていたのに、モラハラやDVの加害者と言われて、最初は納得できなかった」ということばかりです。

     

    そして2つ目は、モラハラ・DV加害者も、自分の加害性を認めて学び変わっていけることはよくあるということです。加害をしてしまうことは決して変えられない不変の属性ではなく、学び変わることで変えられることだということです。

     

    僕は、毒親についても同様だと思っています。

     

    つまり、毒親もまた「どこにでもいる普通の人」だということです。毒親だと急に言われて「確かに!」と思える人なんていないし、最初は驚き、ショックを受け「そんなことない」「何言ってるんだ」「誰が育ててやった」と思ってしまうことは自然なことだということです。

     

    そして、何よりも、毒親もまた「学び変わることができる」ということです。後述しますが、僕は毒親を加害者だと考えます。加害とは「ケアの欠如」です。ケアができる人になれば、毒親をやめることはできると確信しています。そして、そのための方法は明確に存在していて、学習可能だと信じています。

     

    PaToCaとは、「Parents, Toxic to Caring」の略です。毒になる親から、ケアする親になること。それが毒親をやめることです。

    背景2. 傷つきは連鎖する、その連鎖を終わらせる

    GADHAに取り組む中で、自身も含め、生まれ育ちの中で傷ついてきた人たちがたくさんいました。多くの人が、その傷つきを「今更蒸し返してもしょうがない」「どんな親も完璧じゃないし」「育ててくれたことに感謝しているので、批判なんてできない」「大したことじゃなかった」と麻痺させています。

     

    一見、良いことを言っているように思います。しかし、これがひっくり返ると「〜してやっているのだから、文句を言うな」という論理になることに注意する必要があります。モラハラ・DVは、まさにそのような構造を持っています。

     

    「お金を稼いできてるのは誰だと思ってるんだ」「そのくらい大したことじゃない、自分の方がずっと大変なんだ」というのは加害の典型的な方法です。

     

    そのように、自分の傷つきを認めてケアできないうちは、人の傷つきを認めてケアすることは不可能です。「このくらい大したことがない」「自分はもっと大変だった」「こっちはこんなに頑張ってるのに」「感謝が足りない」「甘えている、ずるい」と思ってしまうからです。

     

    実際、加害者変容が最も困難な人の中には「どうしても親を批判することができない」という人がいます。親を批判することは、決して全面的に人格を否定することではありません。誰もが不完全で、不十分です。だから、親にできなかったことがあること、してほしかったことがあることは自然です。それによって傷つくのは自然なことです。

     

    しかし、傷付いてはいけない、と思ってしまう人がいます。そのような人は、まさにそのような理由で、パートナーやお子さんに「傷付いてはならない」と思ってしまうのです。それでは加害を止めることも、ケアを始めることも決してできません。

     

    そして、その瞬間から、その人は「毒親」になるのです。

     

    このように、モラハラ・DVと、毒親には密接な関わりがあります。それは、明らかに連鎖します。よく、虐待やDVは連鎖すると言います。実際にはそこまで連鎖の割合は高くないという調査もあります。しかし、僕はここには大きな抜け穴があると思います。それは「何を虐待とするかの定義」は変わり続けていくということです。

     

    身体的虐待を受けた人が、必ずしも身体的虐待はしないかもしれません。それは統計的には連鎖していない、と言われるかもしれません。しかし、心理的虐待や、経済的虐待はしている可能性があります。虐待という言葉を使わないとしても、マルトリートメントとか、毒親といった言葉が使われることもあります。

     

    そうすると、一体何を連鎖しているとかしていないとか考えることができるでしょうか。

     

    僕は、その本質は「良かれと思ってであっても、仕方ないことであったかもしれなくても、傷付いたことを素直に認めて良い。傷付いたと言われた人は、その傷つきに誠実に向き合い、再発を防げるように関わるかどうか」だと思います。

     

    何が傷つきとして正当に認められるかは、時代によって変わります。でも、傷つき自体はそこにあります。DVかどうか、虐待かどうか、そういう定義も(特に政策においては)重要ですが、ぼく自身はその定義に強い関心はありません。大事なのは「大切にしたい人が、傷つけられたと思っている」ことです。

     

    よく、GADHAのメンバーは「親に謝られたことがない」「親同士で謝っているところを見たことがない(DVがある関係において、片方のみが謝るパターンはある)」「謝られても、結局再発は防がれず、何度も繰り返された」という経験を語ります。

     

    これらはまさに、「人は学び変わることができる」という経験を与えられなかったことを意味しています。人は間違えることがある。良かれと思って傷つけてしまうこともある。だから、謝って、再発を防ぐことが大事なんです。

     

    それを実感する経験が少ない人は、自分が人を傷つけた時に「良かれと思ってだから仕方ないのに、嫌な奴だな」とか「いつまでもしつこい、昔の話なのに」と思ってしまいます。

     

    逆に「全部自分が悪いんだよね、ダメな親でごめんね」」と謝る親もいます。しかしそのような謝り方は、再発を防ぐ方向に向かうわけではありません。「これからも同じことをしちゃうけど許してね」「私は弱いから、不完全だから、これ以上責めないで」という許しの強要であったり、傷つきの、結局のところ放置であったりします。

     

    より子どもにとって辛いケースであれば「お母さん/お父さんはこんなに頑張ってるのにどうしてわかってくれないの?」「この辛さがわかるのはXXだけだよね」というふうに、ケアする責任を放棄し、子どもに押し付けて、「自分の方こそこんなこと言ってごめんなさい」「困らせてごめんなさい」と罪悪感を持たせるケースもあります。そして親に謝り、慰め、親子関係の逆転が起きることもあります。このようなケースも、PaToCaでは毒親、加害的だと考えます。

     

    「ケアする責任」を果たさないことが、加害だからです。

     

    これらに共通することは「傷つきを認めない」「ケアをしない(含む再発の防止)」ことです。このような態度は連鎖します。それがパートナーシップにおいてはモラハラ・DVなどのような形で現れることもあるでしょうし、親子関係においては虐待・毒親という形で現れることもあるでしょう。

     

    GADHAの中には、パートナーの問題について取り組んでいる中で、子どもや親との関わりを問い直し、劇的に改善する人たちはたくさんいます。子どもが鬱で苦しんでいたり、不登校になった原因は、自分だった、と思い知って非常に苦しむ人もたくさんいます。

     

    しかし、その苦しみを(被害者である子どもにではなく)同じ境遇の人と分かち合うことで、なんとかかんとか、死にそうな気持ちと向き合いながら、なんとかかんとか「それでもケアを始めたい」と思う人たちはいます。「自分たちの世代で連鎖を終わらせたい」という人たちがいます。

     

    僕は、加害者とされる人は変われると知っています。そしてそれは、社会の希望です。

    背景3. 距離を取られた毒親たちへ

    このようなさまざまな変容を目にしながら、ずっと心に気にかかっていたことがありました。GADHAのメンバーの中には、加害者変容を通じて、パートナーやお子さんとの関係が変わるだけではなく、親との関係が変わる人もたくさんいます。

     

    多くの場合は、親子関係で傷ついていたことを認め、加害者変容が進んでいくと「実家に帰ると、親の加害性にすごく気づくようになってしまって、苦しいから距離を取るようになった」とか、「今更言ってもどうせ変われないとは思いつつ、親に変わってもらえるなら変わってもらいたいけど…ちょっと話すと不機嫌になるし、やっぱり無理そうだ」といった形です。

     

    その様子は、まるでDV被害者の方が、加害者に対して傷つきを伝えようとする構造ととても似ていると感じます。「傷つきを伝えても、どうせ伝わらない」「伝わらないどころか、反撃されて、ますます傷つく」「だから言えない」「周りに話しても、そんなもんでしょとか、それでアウトならうちもアウトなどと言われてしまって、わかってもらえない」「言ってもしょうがないから静かに距離を取る」「それがどうしてもできない場合は関係を断つ」「その際に爆発して自分も攻撃的になってしまい、自己嫌悪に苦しむ」「やっぱり…と関係を少し近づけると、最初は良くても結局変わってなくてまた傷つき…」といったことです。

     

    DVや虐待も、ハラスメントも毒親も、その本質にあるのが「傷つきを傷つきのまま認めない」「それをケアすること(再発を防ぐことを含む)をしない」ことだとよくわかります。

     

    そして、最終的には距離を取られ、毒親は孤独になります。

    モラハラ・DV加害者がそうなるのと同じです。

     

    でも、それで終わりにしたくないと僕は思いました。

     

    その論理を一歩進めれば「毒親もまた、毒親によって育てられ、ケアされること、学び変わってもらうことを、経験させてもらえなかった人なのではないか」と想像することができるからです。

     

    パートナーシップに関する「変わりたい」と願うモラハラ・DV加害者のための場に、2年半で1000人近い方が集まっています。それと同じように、「変わりたい」と願う毒親のための場が、この社会には必要なのではないかと思います。

     

    愛していたつもりだった、愛情のつもりだった、そういってパートナーや子供から絶縁されるDV加害者はたくさんいます。毒親もまた、生まれつきのモンスターでは決してなく、愛情がない存在でもないと思います。

     

    僕は、変わりたいと願うモラハラ・DV加害者と共にケアを学ぶ中ではっきりわかったことがあります。それは、誰もが幸福になりたいと願って生きているということです。

     

    しかし、悪意なく、むしろ善意で、愛情で、人を傷つけてしまうことがある。それによってその人が離れ、自分も孤独になってしまう人がたくさんいる。僕はそんな悲しみがひとつでも減ること、ケアの交換ができる関係、幸福な関係が増えることを願って、PaToCaを立ち上げました。

  • Journey

    学びのステップ

    2

    PaToCaの考え方を学べるコンテンツが全て揃っている理論ページもご覧ください。

    3

    より深く学ぶために無料のオンラインコミュニティやイベントに参加しましょう。

  • PaToCaとは

    About us

    PaToCaの方針

    PaToCa (Parents, Toxic to Caring)は、パートナーシップにおける加害ではなく、親子関係における加害性に特化した場所です。

     

    とりわけ、お子さんから実際に「毒親」と言われたり、そういった直接の言葉がなかったとしても、関係を断たれてしまった人、関係の危機にいる人を中心とした場を想定しています。

     

    GADHAは自分とは合わないけれども、このコミュニティは自分にとって必要だと思う方も多いのではないでしょうか。

     

    本質は同じです。GADHAと同様、ケアの哲学・倫理学をベースに、「人間は誰もが傷つく存在」であると考え「自他共に、ニーズを知ろうとし、ケアしようとし、間違っていたら学び直す関係」を幸福と考えます。

     

    大事なことは「加害しない」ことではなく、どんなときでも「(自他に対して)ケアを始めること」にあります。

     

    しかし、ケアを始めることには大きな勇気が必要ですし、ケアの交換ができない関係は終了すること(別れを受け入れること)も、もっと大変です。

     

    子どもに関係を終了されてしまったり、関わりたくないと言われた人もいるでしょう。自分のやってしまった加害を理解し、子どもの被害を理解し、どうしてそういう加害をしてしまったのかを理解し、どうすればケアになったのかを考え、再発を防ぐための方法を考え、今後関わる周りの人たちに対しても同じようなことをしないと約束し、謝ることはできます。

     

    傷つきを正確に理解しようとした上での謝罪は、お子さんにとって非常に意味のあるものになる可能性があります。それが痛みを多少なり和らげるという価値があることはもちろん、「人は学び変わることができる」と信じることができるきっかけを贈ることにつながるかもしれないからです。それは、子どもを傷つけてしまった親が子どもに対してできる最良のことの1つだと言えると思います。

     

    そのためには毒親とは何か、どんなことが加害になるのか、どうすればケアになったのかを学ぶ必要があります。PaToCaはそんな学びのための場所です。

     

    しかし、残念ながら、関係が戻らないケースもあります。人間関係をコントロールすることはできません。そもそも、コミュニケーションを取ることすら子どもを傷つけることになってしまうこともあります。それでも、どんな時でも、償いをすることはできます。関係を修復せず、直接関わらない形でさえ、人は責任を引き受けうると僕は信じています。

     

    それは、自分のことも、周りの人のことを、大切にしながら生きていくことです。その優しさが、ケアが、回り回って、いつの日か、もう直接関わることのできない子どもにも届くことを信じて生きていくことです。それは決して下を向いて不幸に生きていくことではありません。

     

    しかしそれは大変な道のりです。そこで、悩みを相談し、葛藤を共有し、弱音を吐き、励まし合い、ケアを試みるのが、PaToCaという場です。責めたり、叱ったり、怒ったり、罰したり…そういう関わりではなく、自分の加害性を、弱さを、不完全さを認めあいながら、共に学び、幸福に向かって生きていきましょう。

     

    PaToCaはそのためにあります。

    「毒親と呼ばれるのが怖い」人へ

    PaToCaの活動を始めることを告知したとき、最初は毒親と「呼ばれた」人だけを対象としていました。しかし、多くの方から「今まさに子育てしていて、毒親になるのが怖いです」とコミュニティへの参加を希望する声が届きました。

     

    当初、僕はそういった方は対象にしない方が良いと考えました。なぜなら、その時点で毒親になることが怖いと考えられるような人であれば、すでに世にあるたくさんの子育て(あるいは虐待)に関する情報を得ることで、毒親にならないように学ぶことができると考えたからです。

     

    毒親という言葉を知っている人は、多くの場合、自分自身の親が毒親だと感じており、自分の生きづらさがそこに起因することを知っています。それ自体が苦しいことであって、必要なのはPaToCaのような加害者変容の場ではなく、むしろトラウマ治療などの医療や、子育てのための支援を受ける福祉の存在だと考えました。

     

    しかし、「被害者とか、困っている人という扱いだけではなく、自分の親としての加害性を認めながら学ぶことができる場所は少ない」という声を多くいただき、毒親と「呼ばれるのが怖い」方にも門戸を広げ、活動をしています。

     

    そこで、現在進行形で子育てをしている方向けに特にお伝えしたいことがあります。それは、子育てはものすごく難しくて大変なプロジェクトだということです。

     

    子育ては「社会的に良しとされていること」を教え、それができるようになる人を育てることだと考えられています。しかし、それはある意味では何らかの「正解」「正しさ」を押し付けることを含んでいます。それは教育がある種の洗脳でもあるのと同じように、暴力だと言われてしまうかもしれません(仮に、そこで物理的な暴力や、大声での叱責などを伴わないとしても、です)。

     

    さらに、そのような「子育て」がうまくいかないと、最初に責められてしまうのは主たる養育者です。親が子どもに正しさを要求するのは、社会が親にそれを要求しているという構造があります。一方では子どもが自由に生きてほしいと願いつつ、それでは社会で生きていかないかもしれないから教えるべきことがあると感じつつ、それができなければ自分が責められるかもしれないという不安や恐怖を抱えながら、子育てを行うことになります。

     

    しかも、そんな重圧の中で伝えた「社会的に良しとされていること」は時代の変化と共に変わってしまうことも少なくありません。また、「子育ての正解」を苦労を重ねて学んでも、それがあとから「虐待」「不適切養育(マルトリートメント)」と言われてしまうことがあります。余裕がない中で一生懸命子育てをしたのに、憎まれたり、恨まれることさえあります(これはDV加害者なども同様の感覚を持ちますし、縁を切られた「毒親」と呼ばれた人もそうです)。

     

    人間関係はコントロールできません。親子関係であってもそうです。産んでほしいと願って生まれてきた命はなく、子どもを持つのは親のエゴ(ニーズ)ですから、生まれてきてくれた命に感謝することこそあれど、子どもに感謝を要求したり、尊敬を要求することはできません。

     

    加えて、現代社会では養育や子育て、ケアといった活動は軽んじられ、そのための資源が十分に用意されているとは言えない状態です。特に都市においては、子どもに目を配ることのできる大人の絶対数が少ない中での子育てです。時間的、金銭的、心理的な余裕がない中で、上述のような難しい営みに取り組むことは、本当に大変なことです。

     

    こんな文章を読んだら気が滅入ってしまうかもしれません。ごめんなさい。これを書いている理由は「毒親になるのが怖い」と考えている人には、まず第一に、ご自身のケアを最優先してほしいと思っているからです。加害者変容は大変なことです。毒親になってしまうかもしれないという不安や恐怖の中で、子育てというこの上ないほど難しい営みに取り組むことは、尋常ではないストレスにつながる可能性があります。

     

    自分の加害性に向き合うことはとても大切なことです。とんでもなく勇気の必要なことです。しかし、「毒親になるのが怖い」と思っているあなたに必要なことは、加害者変容よりも、福祉の支援や、トラウマ治療などの医療の力かもしれないからです。

     

    そのため、PaToCaのメインの参加者はあくまで毒親と「呼ばれた」方とさせてください。その上で、「毒親になるのが怖い」という方も参加はしていただけるようにしたいと思います。実際、福祉や支援につながっても「傾聴してもらうばかりで結局解決できない」といった課題感を持っている方もいらっしゃるからです。ソーシャルワークのための資源がこの国にはもっともっと必要だと考えています(支援をする側の方も、支援の選択肢の狭さや、その質量の不足にもどかしさ、無力感を覚えている方もたくさんいらっしゃいます)。

     

    子育てをしている最中において毒親にならないために引き受ける必要のある責任がいくつかあります。

     

    まず、「躊躇う」責任です。何かを正しい、自分が正しい、これが絶対に良い、普通だ、当たり前だといった考えを手放し、「これで本当にいいのかな」「もっと別のやり方があるかもしれない」と不安を抱え、葛藤しながら、それでも自分なりに良いと思える関わりを選び続けることです。

     

    そして「学ぶ」責任です。躊躇うためには、そもそも選択肢を知っておく必要があります。いろいろな方法や手段や選択肢を学ぶことが本当に大切です。とはいえ、そのための余裕を持つこと自体が本当に難しいし、だからこそ、いっそ躊躇わない方が、気が楽だとも言えるのですが、それが加害に繋がっていくからです。

     

    次に「憎まれる覚悟を持つ」責任です。さまざまに学び、躊躇いながらも関わっていったのに、それでもなお、それに感謝されなかったり、憎まれることさえある、後から恨まれることもあるかもしれません。それでもなお、きっとこれが良いと信じて、関わっていく必要があります。

     

    最後に「助けを求める」責任です。こんなふうに並べられて「親の責任を果たせる」と思える人がどのくらいいるでしょうか。どれもとても重たい責任です。だからこそ、その責任が果たせないと感じたときに、弱音を吐いたり、愚痴をこぼしたり、支援を求めたり、助けを求めることが本当に大切です。

     

    ここまでが個人の責任ですが、同時に、僕は社会もまた責任があるとはっきりと思っています。それは「安心して助けを求め、相談することのできる社会」になろうとする責任です。この責任を果たすことなしに、ひとりひとりの親にだけ責任を帰すような社会は間違っていて、加害的で、搾取的だと思います。その社会がないのに、「助けを求める責任」を親に要求することは、あまりにも酷なことだと思います。

     

    そのため、PaToCaとして学びのコミュニティを作ることから始め、今後は子育て支援などの政策提言などにも取り組んでいきたいと思います。

    PaToCaの活動

    立ち上げ期においては、大きく2つの活動を行なっていきます。

     

    1つ目は、slackです。会員限定の掲示板のようなものを想像していただけたらと思います。やってしまった加害について書き込めたり、自分が親にされて傷ついたことについて振り返ってみたり、セルフケアとしてこういうことをやってみたよという共有であったり、さまざまなトピックについて当事者同士がコミュニケーションできます。

     

    2つ目は、当事者会です。slackに参加している人限定での集まりとなります。自分自身の加害性に気づき、「変わりたい」と願う毒親が集まって、それぞれの苦しみや「これからどうしていこうか」について話すことのできるオンラインでの集まりを作ります。顔出しなし・匿名での参加にすることで、プライバシーを心配せずに集まることができます。

     

    PaToCaの活動の詳細はこちらからご覧ください。

  • 関連する用語

    Keyword

    前提

    急に「毒親」と言われて驚いた方がたくさんいると思います。関連するさまざまな用語を載せておきますので、ぜひ色々調べてみてください。

     

    ただし、こういったさまざまなラベルは人を「責める」ために使うこともできるし「ケアする」ために使うこともできます。

     

    また、それぞれが両立していて複雑に入り混じっていたりもして、どれか1つで自分を説明することができるとも限りません。説明できても結局は「じゃあ、どうやって、自分も、周りの人も、大切にしていけるだろうか」を考えることが大事になります。

     

    ちなみに立ち上げ人の中川は「アルコール依存症」「過食症」「境界性ならびに自己愛性パーソナリティ障害」「ASDとADHD」「愛着障害」などが当てはまっていましたし、パートナーにもそう言われていましたが、今では穏やかな関係を作れています。ラベルに引っ張られすぎず、自他をケアするための知識として活用してください。

     

    それこそ、PaToCaでは「毒親」という言葉をわざと使っています。それは、この言葉が、多くの場合において、「責める」ために使われている現状があるからです。

     

    この言葉で検索する時、多くの場合は「変われない」「離れた方が良い」といった言葉が並ぶと思います。でも、僕は人は学び変わることができると信じています。

     

    それは、モラハラ・DV加害者が変容することと同じです。誰もが間違えてしまうことはある。良かれと思って人を傷つけてしまうこともある。でも、学び変わることはできるし、幸せになることもできる。

     

    その幸せとは、決して自分ひとりで得られる幸せではなく、一緒に生きる人たちと、ケアし合う関係を生きることで生まれる幸せです。

     

    ただし、自分と関わりたくないと思っている人を、無理やり引き止めることは決してできません。DV加害者がどんなに望んでも、被害者がその変容の支援をする責任も義務も決してないこと、関係を継続する必要ももちろんないことと同様です。

     

    それでもなお、関わる人たちと共にケアしあう関係を生きることは可能です。ここに載せるさまざまなキーワードも、そのためにアクセスしてみてください。

    毒親・AC・アダルトチャイルド・アダルトチルドレン・愛着障害・機能不全家庭

    元々これらの用語の多くは、依存症の親を持った子どものことを指すアダルトチャイルド・ACという言葉から来ています。そのうち、親の依存症の有無に関わらず、家族が安心・安全な場所でないことを理由とした「生きづらさ」を子どもが持つことが明らかになっていく中で、指し示す範囲が広がっていきました。

     

    そもそも、毒親と呼ばれる人の多くが、毒親の元で育っていることも少なくありません。世代を遡ると戦争などの影響もあります(軍事訓練や残虐な行為に参加した兵士たちのPTSDが家庭に及ぼす影響は甚大です)。

    虐待・マルトリートメント

    毒親、という言葉を嫌がる被虐待経験のある方はたくさんいます。「自分がされてきたことが、毒親なんていうゆるい言葉で表現されることは、自分の傷つきが矮小化されているように感じる」と思う方もいます。

     

    マルトリートメントという言葉は、虐待という言葉を使わずに、より広く「不適切な関わり」というパラフレーズをおこなったものだと認識しています。

     

    これらの全ては、究極的には「そういうことをする親はダメだ、親失格」と糾弾するために用いるのではなく、「子どもを傷つけてしまう自分は、どうしたらいいんだろう」と考えるためのヒントになることを願っています。

    パーソナリティ障害

    毒親と呼ばれた人の中には、「あなたはパーソナリティ障害」と言われるケースもあるかもしれません。境界性とか、自己愛性人格障害だ、と言われることもあるかもしれません。

     

    障害と言われると、変えようのないことだと思ってしまうかもしれませんが、実際にはそんなことはありません。また、そもそもパーソナリティ障害という考え方を採用しなくても、自分がよくやってしまう言動や思考の癖を理解することは可能です。

    トラウマ・複雑性PTSD

    毒親は、その人自身がトラウマや複雑性PTSDを抱えている場合も少なくありません。あなたにも、思い出したくないような過去の傷つきや、もはや無かったことにしたり、たいしたことじゃ無かったと思おうとしている悲しみや痛みがある可能性があります。

     

    典型的には性被害、いじめ、依存症の親を持つこと、夜逃げの経験や家族の借金、虐待された経験などが挙げられます。この概念はその治療と紐づいた概念ですので、ぜひ調べてみることをお勧めします。

     

    自分の傷つきを慈しむことなしに、(自分が与えた)他の人の傷つきを慈しむことは、本当に難しいです。誰かを大切にするために、自分を大切にすることをご検討ください。

    発達障害(ASD、ADHDなど)

    人によっては、毒親とは発達障害を持っている人なのではないか、という著書を出していたりもします。発達障害を持っていることがそのままイコール毒親になるわけでは決してないと僕は思いますが、発達特性を背景として毒親になってしまうことはあると思います(他のすべての人の個性や性格と同様に)。

     

    他の用語もそうですが、僕は究極的には「どんな理由があろうとも、ケアをしないならそれは加害であり、ケアを始めることで加害を止めることはできる」と思っています。

     

    しかし、自分の特性を理解することで、考え方や言動の癖を理解し、変えられることと変えられないことを理解しながら、できることをやっていく、ということには役立つはずです。

  • 終わりに

    P.S.

    ニーズを持ち、傷つく命を生み出すということ

    立ち上げ人である中川は子どもを持っておらず(パートナーも親と絶縁していて、ふたりで相談して、子どもを持たない選択をしました)、毒親という属性の当事者ではありません。そのため、活動が成熟して組織化が進んだ際には、代表をやめ、他の当事者の方に役割を委譲する予定です。

     

    僕は「ケアの欠如が加害」だと考えています。そういう意味では「ケアを必要とするニーズを持った主体を生み出す行為=命を生み出すこと」は、根源的な意味での加害です。でも、それは人間が種として続いていこうとする中で不可避での加害で、安易に批判できるものではないと思います。ただ、子どもを持つことが加害だからこそ、親や人間という種には、生まれてきた命へのケアの責任がはっきりと存在すると言えると考えています。

     

    この社会において命を生み出すことは尊いことだとされています。でも、僕は生まれ、生きてきた中で、苦しかったです。いま、パートナーと幸せに暮らしていますが、同時に、「生まれてこないなら、それはそれでよかった」と思っています。

    僕自身は生まれて落ちてきて、生きてきた中で、たくさん傷ついてきたし、なにより、多くの人を傷つけてきました。自分なりに精一杯生きてきたけれど、僕はモラハラDV加害者として多くの人を傷つけてきました。パートナーとの関係は良いものになったけれど、これまで関わってきたすべての人への償いはできません。

     

    さらに、経済的に高度に発展したこの日本という国に生まれ、グローバルサプライチェーンの中で、さまざまに経済的に弱い国を収奪する搾取的な経済システムの恩恵を受けて生きてきてしまいました。いまも食肉をし、飛行機にも乗り、未来世代の資源を簒奪して生きています。その罪を償いながら、とはいえ自分を押し潰してしまわないようにしながら、関わる他者との間で持続可能なケアを交わしながら生きている関係を増やしていきたいと思っています。

     

    こんなふうにいうと暗すぎる物言いなので、違う側面の話もしたいと思います。子育ては決して辛く苦しいだけのものではなく、生まれてきた命と共に世界を豊かに味わい、共に笑い、楽しい時間を過ごせる時もたくさんあり、子育ての中で親自身が救われたり生きていてよかった、生まれてきてよかったと思えることもあるような、そんな素晴らしい時間にもなりえるとも思っています。そんな子育てが多くなることを願ってこの活動をしています。

     

    そして、生きることは苦しいこともたくさんあるけれども、嬉しいこと、楽しいことだってありえるし、その方がずっと多いという人生を生きられる人だっていて、それはとても素敵なことだし、僕も、そして周りの人も、そういう人生を送られるならいいなあと思います。僕自身、妻との暮らしの中で、こんなに人生って穏やかでくつろげて幸せなものになるんだと驚きながら暮らしています。

     

    僕は甥っ子や姪っ子のことをとても大切に思っていたし、親戚で集まるときには大人といるより子どもたちと一緒に遊ぶのが本当に好きで、いつか子育てをすることを楽しみに思っていました。だから、決して、子どもが憎いとか、全ての命が生まれてくるべきではなかったなんて、そんなふうには全く思っていません。この不条理な社会に生まれてきた命が、少しでも生きやすく、ケアの多い関係の多い人生を生きてほしいと願っています。

     

    ただ、新しい命を生み出す時、それは誰のニーズに基づくものなのかを言語化しておくことは、PaToCaにおいて外せないポイントです。命は、決して「生まれてきたい」というニーズを持って生まれてくるのではなく、親(あるいはその周り、それを要請する社会や国家を含む)の「生まれてきてほしい」「子どもを持ちたい」というニーズによって生まれてくるということです。

     

    それはある意味ではケアの欠如であり、加害です。でも、そういう意味ではそもそも人類の歴史が加害の歴史であり、だから断罪できる、というほど単純な話ではありません。特に子どもを持ってから反出生的な立場に立つのは、子どものことを思う人ほど難しいし、子育てにとってプラスにもならないし、自分の幸福にもつながらない可能性が高いでしょう(それゆえに反出生主義がこの社会で支配的になる可能性は低いと考えています)。

     

    だから大切なのは「産んでやったのに」とか「誰が育ててきたと思ってるんだ」といった、自分のニーズによって傷つく命を生み出した責任を引き受けずに、むしろ感謝や尊敬を要求するような態度を、親(あるいはその周り、それを要請する社会や国家を含む)は手放す必要があるということ。そして、むしろ生まれてきた命が持つニーズをケアする責任を持っているのだ、ということを考えたいということです。

     

    自分は反出生主義的な立場ですが、だからといって他の人に「子どもを持つべきではない」とか「お前は命を生み出した加害者だ」と言うつもりはありません。「責任を果たさないなら毒親だ」「親失格だ」と、そんなふうに責めるつもりはありません。それは、次の悲しみや痛みを生み、その傷つきは次の傷つきを生みます。そんなふうに責められた人は、自分や、周りにいる人を傷つけてしまうかもしれません。

     

    僕はモラハラ・DV加害者と共に学び変わっていく場であるGADHAを運営してきた中で感じていることがあります。それは、人を傷つけてしまう人も、幸せに生きたいと願っているのだということです。そして、恥や無能感を感じることが、生きる中でとても辛いことだということです。

     

    幸せの形や、そのためのアプローチは人によって違います。それでも、人はできることなら幸せに生きたいと願っていると思います。しかしそれがうまくできなかったり、その幸せ自体や、そのアプローチが間違っていると言われたら、深く傷つき、恥や無能感を覚えます。

     

    それなら、自分にできることは「幸せに生きたいと願ったのに、結果的に人を傷つけてしまった人たち」が「自分の加害を認め、学び変わることを通じて、幸せに生きること」を支援することだと考えるようになりました。

     

    モラハラやDV、毒親や虐待といった言葉や、「変われないモンスター」といったメッセージは、それを差し向けられた人に恥や無能感を与えます。でも、それは被害者の方の叫びであり、やっと勇気を出して声にできた告発です。「そういう言い方は良くないのではないか」と責めることは決してできません。

     

    自分にできることは、そういった恥や無能感と紐づいた言葉、そこで加害者と名指された人が、その痛みや悲しみ、生まれてきた不条理や希死念慮、それでも幸せを願う気持ちを大切にできる場所を作ることで、学び変わり幸せに向かって生きていくこと、それを通して謝罪やケアを始めていくことができるような場を作っていくことです。

     

    そしてそれを通して「学び変わることのできる毒親」のロールモデルが生まれてくることで、その人たち自身が幸せになって欲しいということはもちろん、それによって、この社会が「毒親も、学び変わることができるんだ」と信じられるようになることを目指しています。それは、子供に毒親と名指された人にとって勇気となると信じています。

     

    そして、そのような場だけを作っても、この社会を変えていくことはできないでしょう(ミクロな個人の変容だけを促すのは、加害的な社会の中では、常に限界があると思います)。パートナーシップ、子育て、学校教育、受験制度、労働環境、経済、法、政治、思想など多様なレイヤーにおいて、ケアを基盤とした社会を目指し、人が学び変わることのできる制度や文化を作っていく必要があると考え、これについても取り組んでいきます。

     

    僕は子どもを持つことは選びませんでしたが、これからもたくさん生まれてくる命が、この不条理な社会に生まれてくる命が、生きやすく、学び変わることを可能とする社会に生きてほしいと心から願っています。

     

    そして、命を生み出す選択をした人が、その命に対する責任を十分に果たせないときこそ、恥や無能感に苦しむことなく、学び変わることができると、そして幸せになることもできると、信じることのできる社会にしたいと思って、活動していきます。

     

    そして、(労働力であり、購買力でもある)子どもを産んでほしいと願い、そのような有形無形の圧力を加え、子どもの誕生によって利益を得る国家という主体が、そのような社会を作る責任を果たせるような活動にも取り組んでいきます。

     

    これらの活動は、これからも生まれてくる命が生きやすく、楽しく、安心して過ごせる社会を作ることです。そして、それはつまり命を生み出した親もまた生きやすく、うまくいかないときや自己嫌悪をしてしまう時があっても、それでも自分の人生を豊かに、幸せに安心して過ごせると信じられる社会を作っていくことです。

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